12 Years

2007年1月17日コメント (6)
香港・F1の会のリーダー、ノゲイラさんの日記に触発
されて。もう、自分でも忘れかけてたなんて、情けない
やら、悲しいやら。

1995年1月17日、午前5時?6時?(←時間は忘れた)
に震度7の直下型地震が淡路島沖で発生。
当時中学2年生だった自分も、実家の神戸にいて被災
したわけでして。

家が何とか無事だった(←但し、歩いたら揺れる不安定
な状況)のでよかったけど、ものすごく怖かった事を覚え
ている。なので、未だに地震がくると、ちょっとでも怖い。

家の外に出ると、家が崩れて道を塞いでいたり、ガス臭
かったり。長田の街では大火災が起こり、何人もの人が
逃げ遅れ。もし親父の商売の関係で長田に住んでいたら、
自分もその時に死んでいた可能性もある訳でして・・・
そして、太陽は埃に覆われてすごく不気味だった事を覚
えています。
会社が丸焼けになってから、親父は今もずっと苦しんでい
るし。

そして、避難所では偽善者ぶった人たちが救援物資を
私物化したり、果てには自分の店で売ったり(当然、その
お店はすぐに潰れましたが)。一時、人間不信に近いも
のになっていた気もする。

その反面、それがあったからこそ、区役所の人と知り合い
になれたり(それでかなり救われたと思う)、今の自分の
夢があったりする。

何がどう、とは言えないものだけど、自分自身に相当なる
影響を与えられた出来事である事は確か。
今までも、これからも。

無くなった方々のご冥福をお祈り致します。
そして、今、こうして生きている事に感謝。

2007年1月17日
Yossy

コメント

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にの
2007年1月17日22:51

関西出身者には1.17は忘れられへん日やね。
俺は震災の風化が怖いねんな。
会社の九州出身の人に「今日何の日か知ってますか?」って
聞いたら「えっ、何の日でしたっけ?」って言われたわ。
(その後「今から12年前に…」って言ったらわかりはったけど)

nophoto
苦瓜
2007年1月18日2:57

当時、私の学校からも、お父様(お医者様)の手伝いで学校休んで救援活動に行ったクラスメートがいました。
逆に、震災で避難してきた人もいて、九州にいながら震災の規模の大きさを身にしみたものです。
あれからもう、12年なのか。早いね。

nophoto
ノゲイラ
2007年1月18日11:33

やはりYossyさんも神戸だったのですか。。。

僕が当時住んでいたのはJR芦屋駅と阪神高速の間くらいに位置する宮川町と言う所でした。あの震災の数日前に近所に住んでいる友達の家でホ−ムパ−ティーを開いて(あぁ、芦屋に住めて良かったなぁ・・・)などと、悦に入ってましたよ。眼の前には、山と川(芦屋川)が織り成す綺麗な風景があって本当に幸福感を感じていました。

それが、あの日を境に全てが一変。

地獄絵図の様な光景に茫然自失・・・。実際、死の恐怖からなのか、一時、顔面の痙攣に悩まされた時期がありました。

まさしく被災者にとっては心の傷が蘇って来る日ですね。

nophoto
Yossy
2007年1月18日14:11

>にの
 俺の感覚ではぱっと出てこんかってん。あかんな…。
 でも、関西以外の人は難しいと思うでそれ。

>苦瓜さん
 おー、それはすごいな。
 避難して(家が潰れて)親元の実家に転校していった人も
 結構いました。。
 時が経つのは早いものだね〜、ホンマ

>ノゲイラさん
 あれ?関西でしたっけ???(スミマセン)
 お仕事の関係でしょうか??
 そこら辺は被害が大きかった方ですよね。JR〜阪神高速沿いが
 結構被害を受けていた印象です。
 落ち着いた時、自転車で走ってみてショックを受けた記憶があります。

nophoto
ヤッサン
2007年1月18日22:14

12年か…、早いね。

当時大学生だった俺は、当時の彼女(で、今の嫁だったり
する…)を迎えに神戸(六甲)まで行ったわ。
崩れ落ちた阪神高速の横を通って、普段なら1時間かから
ない道が5時間くらいかかったな。でも助かって良かった。
この震災で亡くなった6千余の尊い命のうち、知合いも
いたし、一歩間違えれば自分も死んでたかもしらん。

1月17日早朝5時47分。この日、この時間はこれから
一生忘れる事はないでしょう。

YOSSY
YOSSY
2007年1月19日20:48

>ヤッサン
 5時47分。そうでしたね。
 まだ明け方で暗かった。
 そこから、朝日が出るのを待ちわびて布団の中でビクビクしてました。
 六甲!!
 じゃ、近くまでいらしてたんですね〜(当方、王子公園)。
 外歩くのも危なかったので、怪我しませんでした?